悪いところがなかったら素晴らしい?
最近よく思うことは、悪いものをなくしていけば、良くなるのかっていうこと。
この前、本業の指導で学生さん向けに講習をしたときに、とある生徒さんに
『先生、私どこか問題ありませんでしたか?』
と聞かれて、びっくりした覚えがある。
特に最近の若い子はそう感じることは多いけど、自分にもそういう傾向はあるなぁと思いながら、いろいろと考察していました。
たしかに悪いものをなくしていけば、勉強でも人生でも、ある種クオリティみたいなものは上がると思うんだけど、あるところで頭打ちになってしまうと思うんだよね。
特に悪い部分って目立つし分かりやすいから、それを改善していくのはやり易いし、取っつきやすいから、問題を解決してよくなっていくっていうのは、ある意味では簡単なことのなのかもしれない。
でもそれが悪いと思うわけではなくて、そういう観点しかないと、問題が一つ解決してもまた新たな問題を見つけてしまって、その作業が延々と終わらないように感じる。
自分が問題をすぐに見つけるセンサーみたいになってしまうんじゃないかなぁと。
ずっとそうやっていくことって、仮に結果や人生がどんどん良くなってたとしても、幸せなことなのかなぁと思ったのでこんなこと書いてみました。
ではまた!
気楽にね
なにか困ったことがあったときに、あんまり難しく考えすぎるのはよくないね。
考えすぎると、自分で自分の作った考えの檻に入っていく…でもその檻から出るのに必要なのは考えることじゃない。
まずはその檻の外にでること。
たまにはリラックスして気楽にやることも大切なんじゃないかな。
考えることの稼働率
心理的に忙しい人は、常に思考している。
ある考えが浮かぶと思考し、その浮かんだ考えについてまた考え、常に考えることの稼働率が高くて、空き容量が少ない。
インターネットブラウザで、ひたすら新しいタブを開き続けると、動きが重くなるのと似てる。
もっというとそれは自分が主体となって考えている状態ではなく、浮かんでくる考えに、考えさせられている状態だ。
人は考えるという行為で答えがでると思いがちだが、本当にそうなのだろうか。
よく考察してみると、考えるという行為が答えをもたらすというよりも、もっと大元の理屈や言語になる前の部分があるからこそ、それを思考として認知することができる。
あたかも自分がそう考えたように感じるけど、それは完全にそういうわけではない。
だから、考えることだけで答えがでることはないし、その堂々巡りはとても非生産的だし、ネガティブな方向に行ってしまうと、精神的にも肉体的にもとても疲れてしまう。
答えを得ることがゴールだとしたら、考えることは、それに対して確実に向かえるツールではないから。
考えることで答えが確実にでるなら、みんな迷ってないでしょ?笑
それだと片手落ち。一生懸命考えているときより、そこから抜け出たときに、解決の糸口が見つかることのほうが多いように思います。
だから、たまには頭の中をクリーンナップすると、その空いた隙間から、新鮮なインスピレーションが湧いてくるかもね。
今日はそんな話でした。
ではまた!
疲労感と心
疲れてくると結構汚い言葉が浮かんでくるんだけど、昔はそれを押し込めてた。
そんなこと考えちゃいけないって。でもそれはたしかにあるもの。
出てこようとしているものを、違う形にしようとするのは、パワーがいる。
抑圧は、葛藤を生む。その言葉が出てきている自分自身のことを見つめてみるとなんで自分がそうなっているかわかるときが多々ある。
自分のフラストレーションやストレスがどこからきてるかわからずに怒りや悲しみに縛られるのはあまりいいことではないけど、だからといって、怒るのは大人としてどうかとか、無意識にいけないと考える必要もないように思う。
出たがっているものは、それをちゃんと自覚したうえで、吐き出してみると、それはそれでわかることがあって、そういった感情に無意識にストップをかけるのは、それはそれで勿体ないなぁと最近は感じている。
心に葛藤があるうちは、なにごとも受け入れづらい。特にそのフラストレーションの元となってる出来事や人間関係だと、ただ真実のままを見ることですらも難しいことがたくさんある。
だから、いつも素直な心でありたいなと思っています。
そのほうが、どうころんでも結果的にいい方向になる気がするから。
ではまた!
動じない心
何事にも動じない心を得ようとして、絶対的に安心できるなにかを求めていた。
でもその心は、そんな絶対的な何かにすがる必要もない心のことなのかもしれない。
なにかにすがりたい自分自身は、一体どんな自分なんだろう。
そのことを考察すると、おのずと見えてくるものがあるように思う。
大丈夫とか、大丈夫じゃないとか。
本当に肚が据わった人や、自分の人生を生ききってる人は、大丈夫とか不安とかいう概念がないように思う。
大丈夫という状況も、大丈夫じゃないという状況も、その人逹にはあまり関係がない。
生きることに対して筋が通ってる。そしてその姿はカッコいい。
達人とかカリスマってそういう人なのかもな。
99%よりも大事な1%
人は自分のことで見たくない部分があると、本当に巧妙に見ないようにする。
それは人と話してるときに思うこともあるけど、自分のことを省みて思うことがよくある。
よっぽどそこを見られると都合が悪いと考えてるようで、何重にもセキュリティーかけて、それを見れないようにする。
わかったと思っても、それはダミーの答えだったり。
だから心理学的な深堀りや、精神分析のような論理的なやり方では、そこにはたどり着けないと思う。
分析している者自身がそれを避けようとしている、そのもの自身だから。
でも、いつの間にかそれをタブー視してしまったそれは、そう思い込んでしまっただけで、ブラックボックスにしまいこんでなにが入ってるかすらわからないような状況だとしても、光をあててみれば中身もわかるし、それを整理することができる。
ただ、それは論理ではたどり着けない。
たとえ、人間の99%は論理や分析することでたどることができても、1%の大切な部分はわかることができない。
その99%の中でいくら考えても、残りの1%は考える対象として感じたり掴むこともできない。
その1%は、幸せや地位とか名誉とかお金とか目的とか、そういうものを追うことから、自分の人生を生きはじめたときに、だんだんとわかっていくことなんじゃないかなぁと思う今日この頃でしたとさ。
ではまた!