理解の呼び水
知識は理解の呼び水。
理解を得るために知識をやみくもに取り入れても、理解を生むどころか蓋をしてしまうことも多い。
人の心がよくわかる人達は、その人の理解を引き出すものを、言語や知識という形にして差し出してくれる。
その理解という水が、どうやったらその人から出てくるかわかっているから。
自分と向き合うこと
自分と向き合うことって、ダメな自分を倒したり、なくすこととは違う。
その自分を変えようとしたり、乗り越えたりするのともちょっと違う。
そのままの自分を知ること。とても精妙だけど、とても大切なことのように思う。
人生の頂で輝いてる人
人生の頂で輝いてる人、谷底でもがいたことのある人、どちらも素晴らしい経験だけど、どちらも知っている人は、意外と普通に過ごしていたりする。
そういう人は頂も目指してないし、谷から逃れようともしてないけど、必要なことを、ただやってる。人生の頂からも谷からも自由な生き方。
そうやって生きてる人は美しい。
優越感
人よりも優れていたいとか、優れていなければとか、そういう気持ちがベースにありながら努力してもっと良くなろう、人よりも優れていようとするのは苦しい。
優越感は他人と比較して自分が感じる一瞬の快楽だけど、本当の優越は自分の優れるとか劣ってるとか、優劣っていう概念を越えていくことなのかもな。
悪いところがなかったら素晴らしい?
最近よく思うことは、悪いものをなくしていけば、良くなるのかっていうこと。
この前、本業の指導で学生さん向けに講習をしたときに、とある生徒さんに
『先生、私どこか問題ありませんでしたか?』
と聞かれて、びっくりした覚えがある。
特に最近の若い子はそう感じることは多いけど、自分にもそういう傾向はあるなぁと思いながら、いろいろと考察していました。
たしかに悪いものをなくしていけば、勉強でも人生でも、ある種クオリティみたいなものは上がると思うんだけど、あるところで頭打ちになってしまうと思うんだよね。
特に悪い部分って目立つし分かりやすいから、それを改善していくのはやり易いし、取っつきやすいから、問題を解決してよくなっていくっていうのは、ある意味では簡単なことのなのかもしれない。
でもそれが悪いと思うわけではなくて、そういう観点しかないと、問題が一つ解決してもまた新たな問題を見つけてしまって、その作業が延々と終わらないように感じる。
自分が問題をすぐに見つけるセンサーみたいになってしまうんじゃないかなぁと。
ずっとそうやっていくことって、仮に結果や人生がどんどん良くなってたとしても、幸せなことなのかなぁと思ったのでこんなこと書いてみました。
ではまた!
気楽にね
なにか困ったことがあったときに、あんまり難しく考えすぎるのはよくないね。
考えすぎると、自分で自分の作った考えの檻に入っていく…でもその檻から出るのに必要なのは考えることじゃない。
まずはその檻の外にでること。
たまにはリラックスして気楽にやることも大切なんじゃないかな。