声にならない声を聴く
僕は昔から、なにかあるとみぞおちの辺りが締め付けられるような感覚がありました。
大学に入るくらいの時に、病院にいって身体的に検査してもらったりしてたんだけど、異常なし。
段々ストレスや心配事があるとそういう風になるんだなぁという風に考えることにして、気にしないようにしてました。
そして心理学を学ぶようになってから、体系的にそれがなんなのか何となく知りましたが、このときは痛みがおこるとそれに耐えたり、なんとかして消そうとしていましたが、自分自身のことを顧みるようになってから、痛みは、なにかしらの衝動をともなっていること、そして自分がそれに飲み込まれていたことが分かるようになってきました。
無自覚に衝動に突き動かされていたんです。
衝動に突き動かされていることがわからずに、なんとかしようとあたふたしてたわけです。
波に溺れている状態では、抵抗しても沈むだけ、、、、
そんな風に思えるようになってから、その衝動と痛みとお付き合いできるようになりました。
そしてある日、その衝動、それ自体が、なにか声とも呼べない声で、
何か言っていることに気づきました。
たぶん、それはずーーーっと同じことを僕に言っていました。
身体と言うものを通して、痛みという姿を借りて、衝動という波にのって。
その声にならない声は、言葉で語りかけてくるわけではないのだけれど、言いたいことはよくわかります。
まるで赤ちゃんが全身をつかって表現するように、ぼくに語りかけます。
そう、それは僕自身の声。
いまもこの文章を書いていると、スルスルと打たれる文字に対して、何かを言っている私自身を観ながら書いています。
どうやら寒い外にでるのが嫌らしい。
そんな自分を無理矢理外に連れ出そうとは思わないけど、そのうちきっと自分から出たくなるだろう。
もうすぐ、暖かい春がくる。