論理という枠。
人は論理的な話を聞くと、いろいろものごとが理解できたように感じるけど、その論理を理解しただけでは、知っているということにはたどり着かないように思う。
たとえば科学だ。科学は説得力もあるうえに、現象を論理的に説明しているように感じるが、量子力学も脳科学も、どこまでいってもそれは科学。
僕らに恩恵を与えてくれるが、その科学という域をでることはできない。
その論理を頭では理解したけど、イマイチ実感がないというのは、それはあなたがまだ知っているという状態ではないということだ。
そこにこだわる人は、科学や絶対的な方法論というとてつもなく大きく偉大な輪ですら、自分をくくる規定になるということに気づかない。
僕らが腕を動かすときに、神経や筋肉の複雑な動きが起きているけど、はたしてそのことを理解しないと腕は動かないだろうか。
…いや、そんなことはない。それは僕らがその複雑で論理的な説明を理解しなくても、腕が動くことを知っているからだ。
だから知識を拝むよりも、智恵を出そう。
智恵を出して、行動して、理解しよう。
そうやってものごとを知っていったとき、論理という枠から出れる。
その時、あなたに論理は必要なものではなくなる。
そうやって、論理から自由になっていく。
ではまた~!