『考える』という行為を説明すること…
現代を生きていくうえ欠かせないのが、考えるという行為だ。
いつも考えるということを漠然としているけど、結局僕らはなにがどうなって考えるという行為をしているか、『考える』という行為そのものを説明することは難しい。
それについていま考えてみても、なにが起こっているか、説明したくても上手く言葉にのせることが出来る人は少数だと思う。
科学的に言えば脳が答えを探している状態ということができるかもしれないけど、それを体感として感知することも、とても難しい。
なんでこんなこと書いてるかっていうと、昨日めずらしくビール飲んでたんですよね。
ビールって泡が落ち着いたあとも、割り箸を浸けると、泡が復活するんですよ。
それで、普段僕らが『自分の考え』として認知できる部分は、この泡の部分だと思うんですよね。
で、この割り箸をいれるということは、考えようという僕らの『意図』という行為。
そしてその考えという泡をおこすのは、割り箸とビールの反応。
だから僕らができるのは割り箸いれるところまで。
その先は、僕らの領域ではないのです。
なにが言いたいかっていうと、その現れてきた泡の部分だけに注目しないということ。
その割り箸をビールに浸したときに、泡ではなく、ビールとその割り箸がどんな反応が起きてるか、自分でしっかりと観ることです。
ある考えが…すなわち泡が浮かんできたときに、その考えそのものに取り合うのではなくて、その泡を生み出している自分自身を観ること。
そうしていると、考えるという無自覚だった行為が、だんだんと自分で自覚できるようになってきます。
その考え…すなわちその泡の味が嫌だったら。
おかわりは違う銘柄のビールにしましょ♪
ではまた!!