わかってからやるのではなく、やってみてわかることがある。
僕は昔からの癖で、しっかりと準備をしてから、ものごとを完璧にこなしたいタイプだったのだが、どうやら最近変わりつつあるようだ。
そんな傾向ではありつつも、学生の頃はがむしゃらにいろんなことにチャレンジしていたのだが、社会のなかで自分の肩書きやポジションのようなものが与えられてから、なんとなくそれにふさわしい結果じゃないと残しちゃいけないような気がしてきて、より一層その傾向が強くなっていったように思う。
そして、そうやっていれば結果はでるわけで、そうすると必然的に仕事の内容もレベルアップしてくる。
そしてあるときからやりもせずに、準備しきれないとか、きっとこれは失敗してしまう…という思いが勝るようになり、いつしか理由をつけて逃げるようになってしまった。
その当時は逃げてるって意識はなかったが、やらない理由なんて人間いくらでもおもいつくわけで、これをやるっていう理由すらない理由みたいなものが実は一番大切で、強いモチベーションとエネルギーをもたらしてくれるように思う。
そんなやるっていうモチベーションがいつしかやらない理由の山の下敷きになってしまってから、僕は行動することをやめ、行動するための必要な準備をするようになった。
この仕事をこなすためには、これが必要だ、あれが必要だ…といった具合に。
でも、それが必要だとしても、やってみるまでは机上の空論。
それが必要だって『やる前の自分』が考えてわかることと、『それをやった自分』が分かることは、その内容は子供と大人ぐらいの差があるように思う。
そしてどちらが合理的な行動がとれるかは、だれでも考えることなく分かるだろう。
いつか読んだ本の中で『理屈屋はいつも臆病だ』という言葉を目にした覚えがある。
理屈は僕らを助けてくれるときもあるが、理屈が通用しない物事をすることをひどく恐ろしくしてしまうこともある。
理屈でA+B=Cになるとわかっていれば安心だが、A+B=Xだと恐怖をもたらす。
でも物事をやる前は、基本的にどうなるか未知数だ。
この世に決まってる未来などあるだろうか。
そんな中で生きるスキルとして大切なことは、1秒先だってどうなるか分からないということを受け入れて生きることのように感じる。
そんなふうに最近思っていたら、とりあえずやるという選択肢がとれるようになってきた。
そしてそれはいい結果だけでなくて、人生の楽しむということも一緒につれてきてくれた。
明日がどうなるかわからないのが、だんだん恐怖ではなく、楽しみになってきた。
なんだか明日からはじまる仕事の最終チェックが終わり、ぼーとしていたらこんなことが浮かんできたので書いてみました。
最近一日一日を一生懸命いきて、次の日からは違う物語のような気がする。
明日はどんな経験ができるのか、楽しみだ。
とりあえずやってみそうな子の図。笑
ではまた!!