批判ではなく、共に成長する。
今朝方こんなツイートをした。
大人になって社会の中で生活していると、自分も含めてそれぞれ欠点みたいなものを感じるときがある。少し前までは、あの人のここが嫌だとか、ここを直したらいいのにとか思ってたけど、最近そんな風に思わなくなってきた。それは欠けてる部分ではなく、これから成長すればいいだけの部分だと思うから。
— こころのおと (@minnasitteru) 2016年4月15日
昨日まで仕事のプロジェクトで一緒だった人に、前々から個人的に思うことがあって、結構不満を溜めていたんだけど、とあるきっかけから僕の怒りが頂点に達して、昨日腹を割って話すことが出来た。
自分の不満を相手にぶちまけることは簡単だし、相手の悪いところはたしかに悪いところだから、責めようとすればいくらでも責められるけど、それだけでは自分の怒りの捌け口として相手がいるだけになってしまう。
僕は相手の悪いところを批判して言うこと言ったからハイ終わり!あとはそこ直してねっていうよりも、その批判というかたちの中でもきちんとコミニケーションができれば、成長という観点の中で、自分の思っていることを伝えるということが出来るようになってくるように思う。
仕事だと人それぞれスタイルがあるから特にそうだと思うけど、自分なりの考えがあってそれをどうしても『正しい』としたくなるものなんだと思う。それは自分も持ってる。
そうやってひとそれぞれの正しいという形を崩したくないのもわかるし、相手の意見を取り入れてますといっても、その意見を自分の都合のいい解釈のなかでおこなわれてることも良くあるし、その人の『正しさ』を強く握っていれば握ってるほど、相手の『正しい』によって自分のそれが崩れることは、きっとすごく嫌なことなんだろうな。
そして、それが崩れたときに、傷ついてしまう。
でも、やっぱりそういう大きな節目とか、自分の根幹に関わる出来事が起きないと、人は方向転換できないんだと思う。
ちょっとヘコんだとか、悲しかったとか、失敗したくらいじゃ、同じ方向を向いたまま、人は先に進もうとする。でもそういった時に必要なのは、たぶん必要なのは同じ方向に歩みを進めることよりも、いままでと違う方向に一歩足を踏み出すことだ。
そして、その怒っているのは、自分自身にもそれをよしとしない考えがあるからだ。
怒っている自分自身を見つめたときに、自分がなぜ怒っているのか自覚することができれば、自分もまた成長できる。
なーんて長ったらしく書いたけど、酒飲んでワイワイやったらまた仲良くやれそうで良かったって話です笑
ではまた!!
こみ上げる衝動
片方だけを求めることは、片方を拒絶すること
片方だけを求めることは片方を拒絶することだ。この事実を自覚して、片方を良いとする自分と片方を良しとしない自分をみることによって、片方だけに偏っていたバランスが段々とれてくる。でもそのバランスが崩れることがあってもいい。時が経てば片方の天秤に極端に重りを載せることはしなくなるから。
— こころのおと (@minnasitteru) 2016年4月12日
結果による満足と、行為による満足
わかってからやるのではなく、やってみてわかることがある。
僕は昔からの癖で、しっかりと準備をしてから、ものごとを完璧にこなしたいタイプだったのだが、どうやら最近変わりつつあるようだ。
そんな傾向ではありつつも、学生の頃はがむしゃらにいろんなことにチャレンジしていたのだが、社会のなかで自分の肩書きやポジションのようなものが与えられてから、なんとなくそれにふさわしい結果じゃないと残しちゃいけないような気がしてきて、より一層その傾向が強くなっていったように思う。
そして、そうやっていれば結果はでるわけで、そうすると必然的に仕事の内容もレベルアップしてくる。
そしてあるときからやりもせずに、準備しきれないとか、きっとこれは失敗してしまう…という思いが勝るようになり、いつしか理由をつけて逃げるようになってしまった。
その当時は逃げてるって意識はなかったが、やらない理由なんて人間いくらでもおもいつくわけで、これをやるっていう理由すらない理由みたいなものが実は一番大切で、強いモチベーションとエネルギーをもたらしてくれるように思う。
そんなやるっていうモチベーションがいつしかやらない理由の山の下敷きになってしまってから、僕は行動することをやめ、行動するための必要な準備をするようになった。
この仕事をこなすためには、これが必要だ、あれが必要だ…といった具合に。
でも、それが必要だとしても、やってみるまでは机上の空論。
それが必要だって『やる前の自分』が考えてわかることと、『それをやった自分』が分かることは、その内容は子供と大人ぐらいの差があるように思う。
そしてどちらが合理的な行動がとれるかは、だれでも考えることなく分かるだろう。
いつか読んだ本の中で『理屈屋はいつも臆病だ』という言葉を目にした覚えがある。
理屈は僕らを助けてくれるときもあるが、理屈が通用しない物事をすることをひどく恐ろしくしてしまうこともある。
理屈でA+B=Cになるとわかっていれば安心だが、A+B=Xだと恐怖をもたらす。
でも物事をやる前は、基本的にどうなるか未知数だ。
この世に決まってる未来などあるだろうか。
そんな中で生きるスキルとして大切なことは、1秒先だってどうなるか分からないということを受け入れて生きることのように感じる。
そんなふうに最近思っていたら、とりあえずやるという選択肢がとれるようになってきた。
そしてそれはいい結果だけでなくて、人生の楽しむということも一緒につれてきてくれた。
明日がどうなるかわからないのが、だんだん恐怖ではなく、楽しみになってきた。
なんだか明日からはじまる仕事の最終チェックが終わり、ぼーとしていたらこんなことが浮かんできたので書いてみました。
最近一日一日を一生懸命いきて、次の日からは違う物語のような気がする。
明日はどんな経験ができるのか、楽しみだ。
とりあえずやってみそうな子の図。笑
ではまた!!
迷ったっていいじゃない。
人生に迷うことは別に悪いことじゃない。
なんだか、自分や他の人が生きることに対して迷っていると大丈夫か心配になったり、なんでこんなことで迷ってるんだろうと落ち込んだりするけど
道に迷うことは必ずしも悪いことばかりではない。
道に迷ってもどってきた人は、正しい道も横道も森の中のオアシスも知っている。
正しい道しか歩いていない人よりも、いろんな道を知ってる人の方が、色々なことを知っている。
大切なのは歩き続けることだ。
今時はグーグルのストリートビューで住所入れればその道は見れちゃうけど
その道を歩いた人だけが、本当の意味でその道を知ることができる。
だれか他の人が横道にそれたときに、一緒に歩くことは比較的できる人が多いけど
その人を案内できるのは道を知っている人だけだ。
だから、あなたの経験が必ずどこかの人の役に立つ。
どこかのだれかの羅針盤になることができる。
だから、迷ったっていいじゃない。
人間だもの。
あれ…?
まさかのパクリ終止…笑
ではまた!
リスクを避けない生き方
人は自分の望むものは手にいれたいが、嫌なものは避けようとする。
ただ、これがトリックだ。
その嫌なことを避けること自体が新しい苦しさを生む。なのに、望むものにたどり着く道があったとき、自分が望まない障害物があると迂回したくなる。
でもこれは人間にとって当然の反応なのかもしれない。
嫌なもんはイヤだしね。
自分も含めて若い人達って、なんだか困難にぶつかるよりも、困難を上手に迂回するスキルのほうが上手になってしまった気がする。
なんでもインターネットで検索すれば出来るし、変に社会が学生の多感な時期を良くも悪くも縛らなかったせいか、生きる苦労みたいなものについてぶつからなくて良くなったように思う。その分SNSとか、人間関係が難しいのかもしれないけど。
そういう生き方ってある時期まではそっちの方が効率的なのかもしれないけど、やっぱり人生いままでの自分のままでは乗り切れない部分もあるし、なにか物事を極めようと思ったら、自分が限界だと考えてる枠をを少しずつ越えていかなければ行けない場面があると思う。
そういう道に立ったとき、いままでみたいなリスクを避ける生き方ではたぶんその先にたどり着けない。
リスクを含めて、問題や障害があってもそれを『やる』という心持ちが、その道を歩くことを可能にするんだと思う。
正直書いてて怖い生き方だなぁとちょっと思うけど、これからはそうやって生きはじめてみよう。
その気概が、きっと道を拓くから。
ではまた!!