こころのおと

日々の気づいたことを綴るブログ。

人生という台風

どんなに暴風に吹き荒れる台風でも、台風の目が存在する。

それは暴風とセットだ。

ある観測点にいればとてつもない突風が吹き、ひどい雨が降っているが、台風の目は同時に存在する。

人生も一緒で、どんなに苦境でもそれは台風いう現象の一部であり、台風の目も同時に存在する。それはあなたの中にある。

ではまた!

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『未知』

先日、何人かで『未知』というものについて話す機会があった。

何があるかわからないこのご時世、未来をできるだけ安心できるものにしたいと思って生きている人は多いと思う。


小さい頃から未来のために何かを詰め込んで、できるだけ安定した職を探し、自分が死ぬまでのプランを組みたくなるのは、当然のことなのかもしれない。


だけど、どれだけ安心できる状況に身をおいたとしても、未来のことは本当のところわからない。


一秒先だって、なにが起きるかわからない。


わからないからこそ、人は不安になる。


なにも決まってない未来を、知りたがる。


なにも決まっていない未来を、決めたがる。


急にそんなことを考え始めてた訳ではなく、年明けくらいに出会った無知の技法という本を読んでから、いろいろと考えるようになった。


「無知」の技法 Not Knowing

「無知」の技法 Not Knowing


本の中にもあったけど、人間は既知のものに執着したがる。


知ってることは安心だからだ。


だから未知という知らないことを、既知という知ってることにしたがる。


でも、どんなに手をつくしても、人間ができることは本当に小さなことだけだ。


確実なことは生まれたら、いつか死ぬことくらい。


生まれたら死ぬ。これは間違いない。


生と死という二つの間にある人生という期間も、たぶん終わってみれば、始まって終わった、そんなもんなんだろう。


だから、あぁ無情って訳ではなく、そのなにが起こるかわからない期間を安定させるために生きるよりも、その期間を生きている自分を輝かせるほうがよっぽど素敵な期間になると思う。


それに、たぶん人生を安定させるために生まれてきた人はいない。


未知というものの安定を求めるよりも、どんなに頑張っても確定した未来を知ることもできないし、確定させることもできないということを受け入れてしまってから、地に足がついて必要なことを出来るようになったと思う。


未知と戦うのではなく、未知という可能性を生きる。


最近は、そんな生き方もありかなぁと思うのでした。


ではまた!


批判ではなく、共に成長する。

今朝方こんなツイートをした。

 

 

昨日まで仕事のプロジェクトで一緒だった人に、前々から個人的に思うことがあって、結構不満を溜めていたんだけど、とあるきっかけから僕の怒りが頂点に達して、昨日腹を割って話すことが出来た。

 

自分の不満を相手にぶちまけることは簡単だし、相手の悪いところはたしかに悪いところだから、責めようとすればいくらでも責められるけど、それだけでは自分の怒りの捌け口として相手がいるだけになってしまう。

 

僕は相手の悪いところを批判して言うこと言ったからハイ終わり!あとはそこ直してねっていうよりも、その批判というかたちの中でもきちんとコミニケーションができれば、成長という観点の中で、自分の思っていることを伝えるということが出来るようになってくるように思う。

 

仕事だと人それぞれスタイルがあるから特にそうだと思うけど、自分なりの考えがあってそれをどうしても『正しい』としたくなるものなんだと思う。それは自分も持ってる。

 

そうやってひとそれぞれの正しいという形を崩したくないのもわかるし、相手の意見を取り入れてますといっても、その意見を自分の都合のいい解釈のなかでおこなわれてることも良くあるし、その人の『正しさ』を強く握っていれば握ってるほど、相手の『正しい』によって自分のそれが崩れることは、きっとすごく嫌なことなんだろうな。

 

そして、それが崩れたときに、傷ついてしまう。

 

でも、やっぱりそういう大きな節目とか、自分の根幹に関わる出来事が起きないと、人は方向転換できないんだと思う。

 

ちょっとヘコんだとか、悲しかったとか、失敗したくらいじゃ、同じ方向を向いたまま、人は先に進もうとする。でもそういった時に必要なのは、たぶん必要なのは同じ方向に歩みを進めることよりも、いままでと違う方向に一歩足を踏み出すことだ。

 

そして、その怒っているのは、自分自身にもそれをよしとしない考えがあるからだ。

 

怒っている自分自身を見つめたときに、自分がなぜ怒っているのか自覚することができれば、自分もまた成長できる。

 

なーんて長ったらしく書いたけど、酒飲んでワイワイやったらまた仲良くやれそうで良かったって話です笑

 

ではまた!!

 

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こみ上げる衝動

怒りや悲しみの衝動がこみ上げてきたとき、無自覚にその衝動にしたがっていたら、それは感情の奴隷だ。

それに付き従うのではなく、そのこみ上げてきた感情を感じている自分自身のことを自覚できたなら、結果的に怒っても怒らなくても、それは奴隷ではない。

それはあなたが選択した結果だからだ。

そして、なにであれ抑圧していたものは吹き出す。

一度破裂した水道管の水を抑えようとしても、そう簡単に抑えられるものではない。

それはもう吹き出してしまった。

その吹き出している感情を抑えることは、応急処置でしかない。

ではどうするのか。

その感情が吹き出している私を正さず拒否せず、共にいることだ。

片方だけを求めることは、片方を拒絶すること

結果による満足と、行為による満足

行為ひとつとっても、それが結果による満足を求めているのか、それとも行為をすること自体で満足なのか、この違いは大きい。

結果による満足は結果に左右されるが、行為による満足は結果ではなくそれをする事自体で満たされる。

大体の場合、結果を求める行為は、結果から得られる感情が欲しいだけだ。

お金や物が欲しいのも、それがあることによる満足や、他人よりお金やものを持っているという優越感だったり、それがあることに手に入れたいと思って手に入れるという達成感なんかを求めてることが多いように思う。

あとはそれが手に入ればこうなるっていう自分の考え。お金がたくさんあれば自由に好きなことできるだろうとか。


こんだけ書いておいてなんだけど、僕は求めること自体は悪いことではないと思う。


だけど、その求めてる私を無自覚なまま、求める心のいいなりにならずに、一度自分がそれを求めていることをちゃんと知るべきだ。


僕の場合は、それが他人から誉められたい、認められたい、トップランクで居続けたいとか、そんなものがたくさんあって、いままでは頭で気づきつつも、あまりちゃんとそのことについて自分で観てこなかった。


昨日、認められて嬉しいと感じることがあって、その時の自分自身をみていたら、なんだか自分が求めてるものは、もうそんな無自覚に子供がおやつ欲しいみたいに求める必要はないなぁと思って。


認められたいという満足よりも、僕は自分がやりたいと感じている行為をすることにこれからは目を向けていきたいと思いましたとさ。


ではまた!


以上、銭湯での気づきでした。笑

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わかってからやるのではなく、やってみてわかることがある。

僕は昔からの癖で、しっかりと準備をしてから、ものごとを完璧にこなしたいタイプだったのだが、どうやら最近変わりつつあるようだ。

 

そんな傾向ではありつつも、学生の頃はがむしゃらにいろんなことにチャレンジしていたのだが、社会のなかで自分の肩書きやポジションのようなものが与えられてから、なんとなくそれにふさわしい結果じゃないと残しちゃいけないような気がしてきて、より一層その傾向が強くなっていったように思う。

 

そして、そうやっていれば結果はでるわけで、そうすると必然的に仕事の内容もレベルアップしてくる。

 

そしてあるときからやりもせずに、準備しきれないとか、きっとこれは失敗してしまう…という思いが勝るようになり、いつしか理由をつけて逃げるようになってしまった。

 

その当時は逃げてるって意識はなかったが、やらない理由なんて人間いくらでもおもいつくわけで、これをやるっていう理由すらない理由みたいなものが実は一番大切で、強いモチベーションとエネルギーをもたらしてくれるように思う。

 

そんなやるっていうモチベーションがいつしかやらない理由の山の下敷きになってしまってから、僕は行動することをやめ、行動するための必要な準備をするようになった。

 

この仕事をこなすためには、これが必要だ、あれが必要だ…といった具合に。

 

でも、それが必要だとしても、やってみるまでは机上の空論。

 

それが必要だって『やる前の自分』が考えてわかることと、『それをやった自分』が分かることは、その内容は子供と大人ぐらいの差があるように思う。

 

そしてどちらが合理的な行動がとれるかは、だれでも考えることなく分かるだろう。

 

いつか読んだ本の中で『理屈屋はいつも臆病だ』という言葉を目にした覚えがある。

 

理屈は僕らを助けてくれるときもあるが、理屈が通用しない物事をすることをひどく恐ろしくしてしまうこともある。

 

理屈でA+B=Cになるとわかっていれば安心だが、A+B=Xだと恐怖をもたらす。

 

でも物事をやる前は、基本的にどうなるか未知数だ。

 

この世に決まってる未来などあるだろうか。

 

そんな中で生きるスキルとして大切なことは、1秒先だってどうなるか分からないということを受け入れて生きることのように感じる。

 

そんなふうに最近思っていたら、とりあえずやるという選択肢がとれるようになってきた。

 

そしてそれはいい結果だけでなくて、人生の楽しむということも一緒につれてきてくれた。

 

明日がどうなるかわからないのが、だんだん恐怖ではなく、楽しみになってきた。

 

なんだか明日からはじまる仕事の最終チェックが終わり、ぼーとしていたらこんなことが浮かんできたので書いてみました。

 

最近一日一日を一生懸命いきて、次の日からは違う物語のような気がする。

 

明日はどんな経験ができるのか、楽しみだ。

 

とりあえずやってみそうな子の図。笑

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ではまた!!