こころのおと

日々の気づいたことを綴るブログ。

わかること、わからないこと

一流のアスリートが、その体感覚を僕に話してくれたとしても、きっと僕は想像という思考の中でしか理解できない。

 

自分の知覚の外の領域は、それを経験しないと、共有することは出来ないから。

  

想像は想像にすぎない。

 

いつも理解は経験を通して起こる。

 

だから、考えるよりも行動することが大切だと最近は本当に思う。

 

『わからない』ことを考えてても、わからないんだよね。

 

背伸びして、無理にわかろうとしたり、そういうものなんだって思い込もうとしたりするより、それがわかるところまで行ってみたほうが、絶対に楽しいよ。

 

わかりたかったら、わかるためにいまできることをやること。

 

真剣にやりきること。

 

そうしたら、自然とそういう感覚や理解が自分のなかで生まれてくるんじゃないかなぁと思っています。

 

なにはともあれ、オリンピックに出場された選手の皆様、お疲れ様でした。

 

感動をありがとう!!

苦しみを抱えてる人は…

精神的な苦しみを抱えてる人は幸いだ、と今なら心から思える。人は問題を抱えない限り、なんとかしようとしないから。たとえ迷ったとしても、盲信せず、誠実に、ひたすら自分と向き合えた人は、どんどん変わっていくし、その苦しみが終わったとき、人知れず輝ける人になってるんだと思う。

自分と向き合うこと

自分と向き合うことって、ダメな自分を倒したり、なくすこととは違う。

 

その自分を変えようとしたり、乗り越えたりするのともちょっと違う。

 

そのままの自分を知ること。

 

そのままの自分とは何か、考えることではなく、知ること。

 

とても精妙だけど、とても大切なことのように思う。

考えることと、結果

頭で考えることは必ずしも賢い結果を生むとは限らない。

 

心で素直にそうだと思ったことはスッて理解できるし、頭で考えた理屈をすべて飛び越える力を持っている。

 

どんなことでも本当のことっていうのは、自然と分かるようになってるんだよね

 

でもそれすら頭はああでもない、こうでもないと考えたがる。

 

 

満足について考えてみた。

先日、友人とごはんを食べながら同年代の出世の話をしていた。

以前は自分も偉くなりたいとか誰もが羨む境遇を目指してた時期があるけど、いまはあんまりそういう風には思わなくなった。そういう立場になってと言われればやるけれども、自分から進んで出世というものを求める必要性をあまり感じなくなった。

それよりも自分を満足させるほうがよっぽど大切だと最近は思っている。

そんな小さなプライドを満たしたり、他人から認められたところで自分が自分のことを認められなければ、どんなものを手にいれても満足することはない。

結局満足なんて、大人が富と名誉を手にいれて満足するのと、子供が欲しかったおもちゃを手にいれて満足することと大して変わらない。

扱ってるものが本物の車か玩具か程度だ。

不満足な心からなにかを手にいれても、その満足は一瞬だ。そこからまた不満足が生まれていく。

だからその満足自体を自分で見抜くことが役にたつように思う。


そんなことを思う黄昏時でした。


ではまたー!




飛躍への扉

逆境や葛藤や混乱は飛躍への直通の扉だ。

ただ、その扉には困難という鍵がかかってるが、飛躍するためにはその扉を自分の手で開けなければいけない。

その扉をあけるために必要な鍵は、物事に正面から取り組む誠実さ、すべてを直視する勇気、そしてなにがあってもそれをやり抜ける熱意だと思う。

だけど、その鍵は外からはやってこない。

すべて自らの内からやってくる。

人よりも優れている?

昨日飲み会で思ったこと。

 
人間どこかで人よりも優位に立ちたくなるものだけど、どんなに自分が立派だと主張しても、どんなに特別な存在だと誇示しても、結局そのどちらが優位かっていう線引きは、その人が作っているもの。
 
 
自分で境界線を作って、自分で自分が優位だと判断して、自分で満足している。
 
 
そんな自分で作って自分で求めて自分で満足する自己解決ゲームを何年もやっていたんだなぁ。
 
 
自分もそういう部分があることに気付いたら、なんだかアホらしくなってしまった。
 
 
自分が勝手に作っていたそのどちらが優れているかという境界線の、優れていることを求めてずっと何かをやっていたことが、それに気付いたとたんに、急に馬鹿馬鹿しくなったりして。
 
 
優れてる人が良くて、ダメな人が良くないっていうのも、人が作っている線引きでしかないし、大人が成熟していて素晴らしくて、子供は未熟でダメってことはないでしょう?
 
大人になるためには子供という期間はかかせないものであって、その人間の存在という観点でみたら、どちらが優れてるというわけではなく、どちらも不可欠なものであり、それは成長というものを通した一つのサイクルだと思う。
 
 
そういう観点でみたら、結局は人は年齢も関係なくみんな平等な存在だ。四海同胞。人類みな兄弟。
 
 
なんてことを思ったら、急に飲み会も素晴らしく思えた平日の朝でございました。
 
 
ではまた!